こんな、「歳を取りました。恥ずかしい人生を、歩んでまいりました」みたいなテーマの記事を続けることもないのだが、ゲームができないのはストレスなので、ちょっと書いてすっきりしたい。
↑こちらが前回記事
そもそもブログにこうやって書いて吐き出すのは、あたしのストレス管理の側面がある。
書くとスッキリする。誰かの目に留まるところに書き残すことでそれはより効果を増す。承認欲求とはまた違う。自分はこんなストレスを抱えているんですよ。そう言える環境がここにあるというのが、精神安定上いいのかもしれないと思っている。
ストレスを抱えてしまうと、内面への攻撃性が表へ出てきてしまったり、それが結果、自分自身を傷つける行為から他人を傷つける行為になることもある。もちろんSNSでpostするのもストレス管理のためということはある。誰かに悩みを聞いてもらったりすると、割と心が軽くなるからだ。
それでも言葉も誰かを攻撃する鋭利なものなので、言葉遣いを間違えると、他人を傷つけてしまうことになる。だから、こうやって文字にしたためることもイヤという人はいるだろう。けれど、どこかで、誰かにこう思ったんだよ、と話をしているはずだ。家族なのか友人なのか同僚なのか。
誰かに話すことでしか、心のモヤモヤは晴れません。ひとりでできる趣味に没頭することで晴れることもありますが、話すことが多くのストレスを解消してくれます。話すのは「モヤモヤしたんだよ」って話題ではなくてもいいのです。人はひとりでは生きていけない。どんな話題でもいいのです。
ひとりで生きている気でも、誰かの親切ややさしさに触れている。だから生きていける。相手は仕事でサービスしてくれているだけかもしれない。それでもいい。そこには仕事とはいえ、人のまごころがあるし、ぬくもりが配られているから。
ブログはただ単に、文字にして想いを吐き出す場所ですが、鋭利な性質をどれだけ帯びさせるのか、本当に毎回悩みながら書いています。言論の自由とはいえ踏み越えていけない線もあるし、踏み越えないと面白さを帯びさせることができない。漫才でもラジオでも人の口から発せられるものは、この世界のどこかで誰かを傷つけているかもしれない。
言葉とは難しいものです。このブログのメインマストでもあります、あたしの大好きなゲームが、言葉の自由を奪われつつあります。これもまた難しい話ですが、世界中の誰もが、快く思える言葉とはあり得るのでしょうか?
そんなことを日夜悩みながら書いているブログ。ここにはあたしの想いがたくさん詰まっている。それはこれからもどんどん増えると思う。あたしは生きている。生きていくために言葉を紡ぐ。人間に科せられた使命だと思うから。
こうやって悩みながら書いていてもモヤモヤは晴れる。逆にストレスたまるんじゃねえ?と言われますが、悩みながら書いている時間も最近かけがえのないものだと思える。前置きが長くなりました。色々と昨今の諸問題についてオブラートに包みつつ、フリにしようとがんばりましたが、結局うまくいきませんでした。
前回の続きの話ですが、ゲームやるにも、そもそもゲームをやる時間が取れない。
体の老いと並んで、それも理由の一つだ。
ここでぺりめにの一日のタイムスケジュールをおおざっぱに見てみよう。
ご覧いただきたい。
ブログの制作にかける時間が一日の4分の1を占めており、振り返ってみるとめちゃくちゃ気が滅入る。
何時間ブログにかけているんだ。
そう指摘されたら、「いやそれはブログを書く理由はですね、ほら、前段で書いた通りで……。」としどろもどろに言うしかない。ブログは精神安定剤みたいなもんでして、へへ……へへへ。
そもそも糞ニートなので、精神の安定は非常に大事だとも主張しておきたい。仕事をしていないというのが、こんなに心をざわつかせるものだとは思わなかった。日本人の社畜性、もう性根からワーカホリックに支配されすぎでは?と自分で自分が恐ろしい。ブログを仕事言い張ることでしか、自分を保てないので、もっとみんなあたしのブログを見て。
もうここまでくると、睡眠時間をたっぷり7時間とってるからいけないのでは?やりたいことがあるなら寝るなよ。と言われそうですが、あまり寝ないのも持病に影響するので難しい。仕事もそのせいでやめたので。
そうなってくると昼食・休憩の時間や、出退勤時間で効率的なインプットをしてブログにかける時間を少しでも減らせないか、と画策しているところだ。
ただ、ブログ(ぺりグ)を書き終わると、来月からnoteも更新を始めようと思っているし、現在でもOFUSE(OFUグ)を書いている。またブログに発表するコンテンツは、エントリーというかたちで制作しているので、「ラジオじゃない」もそれにあたるが、めざせファミ通の名の下に、隙ができれば何かものを書いている。それにまつわる制作に取り掛かっているという状況だ。
つまり時間を削っても、できた余暇時間で青色のコンテンツ制作の時間が伸びるだけで、本末転倒。結局、ゲームを起動する時間はなくなるという寸法だ。
ゲームクリエイターの桜井政博さんもこう言っている。チャプター9「A-9 とにかくやれ!!」で言及している。とにかくやれ、というのはすぐに取り掛からねば、仕事をやり逃すということ。モチベーションはあとからついてくる。そういう話です。
これは割と毎日更新をブログで続けていて思うことだ。
とにかくやれ‼は、本当に大事なマインドだ。ブログはまあ、これも毎日更新することもないのだが、YouTube投稿もSNS投稿も、何か事を成すには、コンテンツを提供し続けることが大事だと言っている。
制作しているから一旦、お休みします。とかはイイと思うが、ひとたび制作物を面白がってくれる人が離れると、取り返すのはとても大変だ。コンテンツはこの時代、あふれかえっている。あなたのコンテンツは世界のどこかで代用品が見つかる。そんな身も蓋もない時代。
制作物はどうしても冷たい。触った温度の話をしているんじゃない。熱だけでは作れないということだ。だから、制作者の制作物に対する「熱」を伝えるには、制作されたものを見せるより、その制作をするに至った考えや制作の経緯なんかを話すことの方が適している。効率よく伝えることができる。
こうして桜井さんが話をしてくれるのは、「熱」を伝えたいと思っているからだ。文字ではなく自分が顔を出して広くさまざまな相手に向けて話すという手法をとったのも、その方が「熱」を伝えやすいと思ったからだろう。
誰かに向けて話をする。
人は自分以外の誰かと一緒になって生きている。この記事の冒頭でも書きましたが、誰かに話をすることで、誰かとつながれる。話をすることの思いの伝わりやすさ。そしてそれを定期的に行う。制作に携わる人は、制作一辺倒でもだめで、もうそんな時代ではなくて、背景や経緯をいろんな形で知ってもらうことがとても大切ということ。
つい先日、桜井政博のゲーム作るにはは最終回を迎えました。
これは終わってみればやはり、桜井さんのゲーム制作に対するメソッドを広く伝えるコンテンツだったんだとわかります。制作し、公開する。「熱」を伝えられる媒体で、「熱」そのものを伝えるためのコンテンツを作った。
お疲れ様でした。またイチから見返して、この「熱」を受け取りたいと思います。
そして、ゲームをやる時間がない!
という名目のエントリーを書いているあたし自身に、鞭打とうと思います。
とにかくやれ‼
あたしの胸の内にはいつだって「熱」がじゅうまんしています。「熱」を伝えるため、今日もあたしは何かを書きます。書くし、作るし、話します。「熱」を受け取るためにコンテンツに触れる。そうしてインプットされた「熱」を自分の「熱」に転換してアウトプットする。
今日も明日もとにかく書く‼そのためにゲームをやる時間が必要なら捻出する。
こんな結末に着地するとは思いませんでしたが、ここへ書くことで、脳が整理されたのなら、ほら毎日ブログ書いてみる意味が見出せましたよね。〈了〉