2.5次元の誘惑。
アニメを視聴しました。
- 今さらながら、アニメ化おめでとうございます。
- 便宜上、画像を転載はしません。想像の翼を広げてお読みください。
- なぜ5話までの視聴か?
- この物語は古のジャンプ作品である
- 原作未読の方が見ると勘違いしてしまう表現
今さらながら、アニメ化おめでとうございます。
原作は連載開始からずっと追いかけていて、単行本も新刊が出るたびに買い揃えてきています。
いわゆる原作厨、原作原理主義みたいなことを今から言おうと思います。なので、うざいなあ原作が最高のものとしてそれ基準で語る浅はかなレビュー記事だな、と嫌悪感を抱かれる方はブラウザバックでお戻りください。
原作原理主義というのは、さっき言った通り、原作がこの作品にとっての一番の表現だという視点で物事を一元的に語ることが該当します。どのメディアが、この作品にとって一番の表現なのか。それは、時に原作でないこともあります。ただそういうことは稀なので、この原作原理という視点が普遍的なものとして語られる場合も多いというわけです。
便宜上、画像を転載はしません。想像の翼を広げてお読みください。
だから、原作至上とは言い切れないところがあるんですが、極論や嫌悪の声が大きいと、どうしても世論が流されてしまうという性質がありますから、人それぞれの感じた気持ちを述べていけばいいんだと思います。
他人に、自分の気持ちを代弁してもらわずですね。自分はこう思う。ってこういうブログなんかで勝手に吐き出せばいいと思うんですよ。そこに共感するもしないも、見た人の勝手なので。
SNSはブログじゃないですよ。あそこは共感することを強要してくる場なので、創作→ブログ→SNSという順で意見の一方向性は薄まっていきます。この話もまたいづれしましょうか。
というわけで、ちょっとざらっとしたことを申し上げるのですが。
アニメ版「2.5次元の誘惑」は原作を読んでから観ると少し誤解をしてしまうな。そういう部分があるな。と思います。
※なんかゲーム化もしてるらしいのですが、3Dモデリングがめちゃイイ出来くらいしか知らんので語りだねにあげません。
また、視聴したのは5話までです。今後も視聴していき、最新話までがんばって追いつきたいと思いますが、途中でやめちゃう可能性も全然あるな、とは感じています。
なぜ5話までの視聴か?
だいたい、「アニメは3話まで見ろ」そこでようやく判断できる、とはだれが言ったかめちゃくちゃ有名な語り草ですが。
なぜ3話なのかというと、そこまでで、そのアニメでやりたいこと、方向性がわかるからなんですね。
1話でヤマを持ってくるアニメもありますが、20分くらいの本編映像内でどこまでの表現が盛り込めるか。それを考えたら20分×3話分=60分、1時間もあれば何が言いたいかだいたいわかる。ちょっと20分て冒頭も冒頭だよな。世界観を表現するだけでいっぱいいっぱいだよな~となります。
映画でも2時間でドラマを組んでいる作品が多いのは、この1時間で方向性をバチっと決めたいからなんですね。残りの1時間でエンドロールに向かってひと波乱乗り越えて大盛り上がりで大団円を迎えたいわけです。
だからこその20分×3話。アニメも3話見ろ。それまで離脱するんじゃねえ。
まあ区切りがいいですからね。逆に3話もやっておいて、ヤマも盛り上がりのひとつも来ないようなら、ちょっと疑わしいです。視聴を途中でやめてしまっても、視聴者に離脱されても、とやかく言えないパターン。
今回、2.5次元の誘惑がなぜ5話までが区切りかな、と言えるか。それは2.5次元の誘惑の方向性が、アニメ5話め=つまり初イベントでリリサがコスプレを披露する(原作は14話め)でようやく見えてくるからです。
初めて人前でリリエルのコスプレを披露して、奥村の前で安心しきった表情で撮られるリリサ。その写真をファインダー越しに「いい写真だよ リリサ」と奥村がきらきらした瞳で声かける。この1シーンにこのドラマの方向性が凝縮されています。
この物語は古のジャンプ作品である
と、あたしは主張します。
友情・努力・勝利。ジャンプの柱となるエッセンスが、この作品には詰まっている。そう言い切れます。
この作品は「愛」ですべての表現が形作られます。「愛」がテーマなのです。決して恋愛だけ漫画ではありません。しかしこの作品は「愛」が大きな軸となり、物語はうねりをもって広がっていきます。
原作では1~14話までで軸となる大きく分けて二種類の「愛」を表現します。ひとつは普通の、人が人を好きになる「愛」。3次元と3次元で成立したい「愛」ですね。もうひとつは2次元の「愛」。3次元が2次元に対して抱く大いなる「愛」。
これらを構成上、キャラクターを登場させつつ語っていきます。
奥村は、リリサの登場により2次元への「愛」にゆさぶりをかけられます。3次元から2次元へのアプローチ=2.5次元の誘惑があったとき、自分はどうなってしまうのか。それはリリサも同様のゆさぶりをかけられます。奥村のナイトっぷりに3次元でありながら2次元(アシュフォード)へのアプローチを感じてしまう。これまで親にも否定されてきた「愛」を肯定し、横に立ち彼女を守ってくれる奥村の存在は、リリサにとっても2.5次元の誘惑にほかなりません。
さらにそこへ、3次元の奥村を同一次元として「愛」している美花莉が現れる。
そして伝説の白ROMを引っさげて初イベントへ臨む奥村とリリサ。ほかのコスプレイヤーに萎縮するリリサに、
はあ?
可愛い!!!
リリサのリリエルが世界一可愛いんですけど!?
と言い放つ奥村。そうしてヒロインがステージへと駆け上がる。ここだけ文字にするとアイドルとPみたいな演出だ。
ガンダム大地に立つ。ならぬ、コスプレイヤーカメラの前に立つ。みたいな演出だもんで。なるほど、ようやくここでこの物語は走り出すのか、と読者は理解できるのです。
ゆえの5話め。というわけです。
ここまでの展開が、原作においては第2巻14話までかかってしまった構成上、アニメでも結構切り詰めてカット割りをしていたと思いますが、5話までかかってしまったと。
このアニメ5話がターニングポイントで、3話切りせずに5話めまで見てね、と公開当時プロモーションをしていたかどうかはわかりかねますが、原作を読んでいた人が視聴したら「ああ、なるほどね」とはなります。しかし原作未読の方が見ると、どうでしょうかね?
原作未読の方が見ると勘違いしてしまう表現
アニメは時間の制約があるメディアです。
もちろん原作にも原稿枚数という制約はありますが、アニメのカットはどこまで削ってどこまで動かすかのせめぎ合いだと思われます。アニメにおいて動きが足りないなあという感想を抱く方は多いと思います。これにもいろんな制約があると思うのです。
モノローグの長いシーンで演者がセリフ(モノローグ)をしゃべる時間と、カットとしてのキャラの動きが会話する相手を目の前にしてそこまで時を止めますか?というやんごとなき対応にならざるを得ない場面がある。
想像できますかね?3次元の会話だと、モノローグなんてのはしゃべりながら頭の中に同時並行で浮かんでくるものです。漫画内で吹き出しの形を分けてしまえば1コマの中で、同時並行処理されましたよ『しゃべり』と『モノローグ』が、と表現できます。
もちろんアニメでもそういう同時並行処理はできます。ここはモノローグで時が止まってるんですよ、と「この間、わずか0.1秒」みたいなこのキャラは今、頭の中で逡巡した。と小説ではト書きの入りそうな演出をすればいいのです。
しかし、それをせず、原作のコマ割りのまま、アニメのカットに落とし込む作品のなんと多いことか。まあアニメーターも働き方改革ですから、カットの工夫に監督のこだわりに付き合っている暇はないのかもしれませんが、「愛」を忘れたらそこで作品の質はガンと低下します。そしてそれは視聴者にも明らかに伝わってしまう。
見りゃわかります。視聴者だってアニメを山のように見てきているんです。手抜きしたのか制作上の都合なのか、そんな背景まで手に取るようにわかる。誰だって、その作品を「愛」していればいるほど、如実にわかる。
オタクがどうとか。原作原理主義がどうとか。そんなこたぁ関係ない。
人に、作品に「愛」があれば、誰だってその「愛」を否定されたくない。「愛」は肯定されるべきもの。認め、大事にされるべきもの。その想いが伝わっているか、いないか。
2.5次元の誘惑は、そんな「愛」をテーマとした作品です。
コンテを切る人も、動画を描く人も、演者も、ちょっとずつボタンを掛け違うことは当たり前にあります。けれど、「愛」が伝わっていてほしい。作品に触れたからこそ、「愛」の熱にあてられて、自分の熱量もガンと上がってくる物語だと感じてほしい。
感じられないということは、原作を読み込めていないのか。はたまた、読解力がないのか。そのどちらかです。
原作厨のうざったい上から目線の語り口であることは否定できませんし、書き方としてよくないこともわかっていますが、さすがに言いたかった。さすがに「デートに着ていく服がないとひと悶着して呆けるリリサのカットは、静止画で表現しちゃだめだろ!原作では1コマで描いていたとはいえ、構図から何から変えたっていいだろ!ていうかその呆ける体勢になったのは、その前段階で服を投げてあーでもない、こーでもないと部屋でどすんばすん動いたからだろ!そこを描けよそこを、アニメなんだから!」だとか「いやいやいや、あまりにもリリサのイベント中の声の表現に抑揚がなさすぎるだろ!リリサの心情をおもんばかれよ!そこは感情がジェットコースターのように変わっている場面なんだから、原作の表現では抜きの演技していいシーンもあるけど基本的にはシリアスめの感情乱高下演技で臨むべきだろ!」最後に「いや奥村ァ!なんでモノローグの「ああ」を、声発してる感じの「ああ」って言っちゃってんだ!音響監督もなんでそれでOK出してんだ!明らかに台本の解釈間違えて発声してんだろ、どあほうが!ていうか一貫して奥村の表現が台本をさっきはじめて通しで読みましたって感じにしかなってないんだよ!この時点の奥村でこっから先の奥村演れるか!?そこからの展開の激アツ奥村演れるだけの引き出し残ってるか!?夏コミの奥村の大啖呵でミスったら許さんぞ!!!!全巻とは言わねえ!せめて読め!原作を先に読んで、読み込んでから来い!そこまでの熱を感じられなかったのなら、読解力がなさすぎる!ただ声を張るのと、そのキャラのアイデンティティを腹の底から絞り出すような発声で演るのとではわけが違うのくらいわかってんだろうがあああああああああああああああああ!」とほかにもたくさんありますが、ここまで言うべきではないと、あたしも大人なので、わかっています。自重してこの記事を閉めたいと思います。
アニメ6話以降、キャラ理解に深みが増して、「愛」が「推し」に変わる視聴者が増大することを切に願う。〈了〉
まだ言いたいことあったわ。
— ぺりグ6周年 (@Buts_Kirisaki) October 23, 2024
「アニメにはアニメのオタクあるあるネタを逃げずにちょっとくらいやる姿勢みせてほしかったなあ!!」「あと奥村ァ!本気が台詞に乗るキャラなんよ、魂乗せろ魂!」
アニメ2.5次元の誘惑を5話めまで観た。思うところがあるので言わせていただく。 https://t.co/2PQ5uFNveq