ぺりグ

数えたら今年で6年

子どもたちはレッテルを貼りたがる

 

 

 

子どもたちはレッテルを貼りたがる。

突然何を言い出すんだ。とお思いだろう。

あたしもこれをメモに書き残していたのを見た時、急に何を書いているんだろう……?とわけがわからなくなった。

何でこんな文章が残っているのだろう……?

なにこの文章


子どものころ友達がいなかった。

食事に制限があってお友だちと同じオヤツを食べられない子ども時代だった。同じ釜の飯を食うではないが、机を突き合わせてメシを食わねば親密度は下がる。親密になり切れない友人関係。

小学生では運動できるやつがヒーローだ。

クラスのヒーローに見初められないと一緒に遊ぶこともできない。幼稚園から登園を休みがちで、運動能力も低かったため、いつも「仲間に入ってもいいの?」と聞いていた。自分が入ることで、クラスメイトが如実につまらなそうにするからだ。
運動できるできないは、小学生のアイデンティティであった。

だから、ひとり遊びばかりがうまくなる。

本当は寂しがりなのに、ひとりでいいと、うそをついた。

幼稚園の頃から運動をするにも、オヤツを食べるにも親の許可が必要だった。そういうふうに、教えられたからだ。
だから、同一目線でフラットに遊べるのがゲームだった。

ゲームで遊べる友だちとなら、友だちになれた。なんでもいい。TVゲームでもボードゲームでも。
とにかく小学生の頃は勉強ができても、ガリ勉と揶揄される。

運動できるやつが正義だ。

小学校時代はあまり思い出したくない

 

 

 

 

だがそれも中学校ではまた変わる。

運動できるやつ勉強できるやつでレッテルが変化した。

ここが面白い話で、そのレッテルはどちらかにしか有効でない。(カードゲームのフレーバーテキストみたい)

片方が評価的に高ければ、たとえば運動能力4で勉強力3だとしたら「運動できるやつ」のほうにカテゴライズされる。

面白いことにどちらもできるやつなんてのはあり得ないと言われる。

そうカテゴライズだ。

人間は、げに愚かと当時から斜に構えていたいけ好かない子だった。そんなことばかり考えていて、結局、人間なんてこんなもんだ。などとわかったふりをしていた。

 

しかし大人になってからも人間は、人間同士をカテゴライズする。

動物と何が違うというのか?もっと人という種は進化してほしいものだ。


話を戻そう。

高校生にもなると、運動できるやつ勉強できるやつに加えて、モテるやつがレッテルとして初登場する。

このモテるやつは、いくつか、属性がある。

おしゃれだったりルックスが強いやつ、運動勉強どちらもそつなくこなせるし爽やか、などここでは最早、できるできないの二元論ではなくなるのだ。モテるには理由がある。と気づくことができる人が増えてくるというわけだ。

少しだけ精神は大人に近づき、その人の個性を見つけることができる人が増えてくる。当然、精神的な成長が早い子や遅い子は小中学校でもいた。この差が、高校生にまでなると、顕著になってくる。

高校生にもなると、レッテルを貼るだけが人間の本質ではなかろう。

そうやって、人間のことを勝手に深いものだと決めつけて、遠ざけようとする者も出てくる。それがあたしだ。

 

 

 

レッテルだけが人間のすべてではない。

ここはいまだに、あたしにも抜けていない部分だが、レッテルを貼る人間はいるし、貼らない人間もいる。しかし、どちらもいるので、この人はレッテルを貼る系の人なのかそうでないのか?をまず見抜く必要がある。だからめんどくさい。

人付き合いはめんどくさい。

心が大人になったというのは、そういう人間の本質を知って、さてどうやってうまく世渡りしていこうか。と考えることができる人にかけることができるセリフだ。

決して、ここまで思考して、結論「人付き合いはめんどくさい」としてしまう心がいつまでも成熟しないあたしにかけられるセリフではない。

向上心がかけらもない。

脳を掘り起こして、回転させておいて、そんな結論しか出せない人間に、脳は必要ないのかもしれない。生まれてきてすみません。

 

 

ねえ、なにこれ

……なにこの文章。

 

 

 

大人になれない僕らの

 

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