あたしはアイドルが好きだ。
ひと昔前、アイドルはアキバ系のキモい男子が推すもので、イマドキのアイドルシーンほど一般大衆へ受け入れられている感なんてなかった。
ただただキモい男からキモい目線を向けられるかわいい女子。くらいのえぐい偏見と概念が巷に横行していた90年代~2000年代初頭。
そんな平成アイドル火付け時代を駆け抜け、何やかんやあってあたしが生まれた頃、おかあさんやおとうさんは、アイドルというものの転換期をむかえていた、と語る。
「あのグループ好きだったんだよ。特に○○ちゃんが推しでさ」と語るおとうさんも、当時はキモ男としてまわりから煙たがられていた。ちょっと黒歴史なんだ、とうつむきがちに話す。
その頃くらいからだ。アイドルの存在価値やオタクカルチャーが理解されるようになったのは。おとうさんは決してアキバ系ではなかったけれど(本人談)アイドルを推すのも覚悟が必要だったそうな。
さて当時からするともっと昔の80年代はどうかというと。
アイドルにキャラクターが付与され、「女性アイドル」というジャンルが確立された頃であり、アイドルは愛される存在なのだということが周知の事実として浸透した。
アイドル史的にはそこからひとつ大きな冬の時代を越え、またブームがめぐってくる。
そこから、アイドルは卒業していくものだったり、グループは存続するものだったりへと変革を遂げる。つづいて、当時より少し未来といえる「成長を応援する」アイドルが誕生していくようになる。
そしていまの時代は、オーディションというドキュメントを経てアイドルになる模様をドラマ仕立てで放送したり、VTuberをはじめとする「顔を出さなくてもアイドル的人気を得られる」ようになったりと、さまざまなアイドルが世の中にあふれてきている。
どんどんめまぐるしく変化していくアイドルたち。
アイドルは、誰にとってのものなのか。それが変わってきているから、アイドルというものの多様化が進んでいるんだと思う。
ひと昔前までは、たくさんの、それこそ日本全国民のためのアイドル。そうでなくてはならなかった。
ビジネスとして成功するために、という冠言葉はつくものの。ひとりでも多くのファンが推してくれないと、アイドルは成立しない。
そこまで切迫してしまったのも、アイドルというのは「作られたもの」でないといけない固定観念があったせいだ。
その固定観念のせいで、アイドルを「作る」ためには相当なコストがかかるものと認識される。だから資金力のある大きなプロダクションが、アイドルのメジャーデビューを担うかたちになってしまう。
ビジネスとしてのかたちでしか、アイドルというものを成立させることが難しい。ビジネスなのだから成功も失敗もあたりまえにある。
失敗したときの流出するコストはハンパな額じゃないので、おのずと産業化するしかなくなるのだろう。逃げ道が塞がれているというか。きちんとした後ろ盾を作る必要があるというか。
とにかく世知辛いのだ。
そうした末、誰のためのアイドルか。どうしてアイドルをはじめたのか。その目的がわからなく、あやふやになってきてしまう。
もっと目先の、誰かにとってのアイドルだったはずだ。それはかならずしも、何千万人のためでなくてもよかったはずだ。
アイドルとは、もっと目の前の、あなたに勇気を与える存在でよかった。あなたはもらった勇気を日々の活力にし、与えてくれたアイドルへ応援というかたちで返してあげる。
アイドルというものの根源はもっと、こんなふうだったのではないか。と、あたしは思う。
それがゆえに、昨今またアイドルの時代は変革期に突入している。
地下アイドルやスクールアイドルといった、ふつふつと存在しつづけていたジャンルが花開く。
大物作曲家や大手事務所が資金をかけて絶世の華を演出していたものに真っ向から立ち向かう。ただアイドルに憧れて、アイドルを自分たちの手で作るんだという気概のある人たちが集まった。
ときには学生で部活動だったり、ときにはオンラインだけの存在と化したり、ときには町の企業のPRだったり。多岐にわたりさまざまなアイドルが生まれ、それが大きくなっていった。
アイドルの個人事業化である。
楽曲を、衣装を、ステージを、映像を、演出すべてを自分たちの出来る範囲で、自分たちのできるせいいっぱいを集めて作り上げる。
一億総インターネット時代。足りないものや、足りないつながりは、ネットの世界が担ってくれる。一生懸命で真摯な呼びかけに応じてくれる職人(フリーランス)が増えた。
会社や事務所のしがらみから、個々人が己をプロデュースしていく社会へと変わってきたからだ。
閉鎖的だった職能が、どんどん個別につながりを持てるようになったし、そういう社会だと人々の認識は変わりつつあった。
いち個人でもアイドルは「作れる」。
自分たちだけで、アイドルになり、プロデュースして、たとえ見てくれる人が少なくても、誰かのためのアイドルであることに誇りを持ち、ステージに立ち続ける。
アイドルは、「会いに行く」から「身近にいる」存在へと変革を遂げた。
そういう時代の波を、その手につかんだ。
よし、いける。
ここからまだ、まだまだ、あたしたちはアイドルで居続けられる。応援してくれる人がいる。その人が目の前にいるかぎり。
アイドルの灯は絶対に消えない。
アイドルというカルチャーは終わらない。広まり続けていく。きっとそうだ。その波をあたしたちは、この手につかんでいた。その実感があった。
「ねえ、あなた何なの……?」
栗色の髪を鮮血で染めて、推しがふりかえる。
琥珀のようなくりっとした瞳は、いつもハートが浮かんでいそうに輝いている。はずだったのに、今は真っ黒に瞳孔がひらいている。
深い球体に吸い込まれそうなほど、にごり、戸惑いとも憎悪ともとれる相反する感情を宿していた。
明かりが消えた病室。
その中央にゆらぎ立つ彼女の目は、はじめ窓の外の電飾に反射して赤く光っているようだった。
獣かと思った。本能的にあとずさり、スマホを手からこぼしたおかげで、ディスプレイが照らし、ああなんだ人間かと胸をなでおろした。
けれど、あたしの推しにいつも通り声をかけようとした瞬間に、その目を見た。推しの目だ。
琥珀のようなくりっとした瞳だったはずだ。
どうしてそんなおぞましい目で、あたしのことを見ているんだ。その手に持っているものと、返り血を浴びている推しの状況が普段の姿と融和しなくて、あたまがおかしくなりそうだ。
「あなたッ、ハァッ、……ハッ、なんだったの……、ほんとうに……」
彼女の戸惑いは、言葉にもあらわれて、柄の部分をかたく握りしめ、わなわな震えていた。
ひっ、ひっ。と呼吸が乱れたまま、一歩、また一歩。こちらへ近づいてくる。
その握りしめたものをぐっと、あたしに向けてかまえたとき、明確な意志を感じた。どうして?
あたしはアイドルが好きだった。
アイドルが好きで、アイドルを推していて、アイドルを応援していて。
そうして一緒になって、がむしゃらに「作って」きたじゃないか。アンタを。アンタたちを。
これまでも、そしてこれからも、生涯の推しはアンタだよ。って胸を張って言える。そんなただ一つの純粋な思いから、それだけをふくらませて、ここまできたんじゃない。
大きな波をつかんだと思っていたのは、あたしだけ?
アンタは、なぜ、そんな眼差しであたしを見下ろし、ざくりざくり、刃を突き立てるの?
体じゅうで鋭利なものが抜き差しされる奇妙な感覚を、ぼんやりかすんでいくあたまで感じていた。
痛いのか、痛くないのか、わからない。
ただ何度も、何度も、肉に刃で切れ目を入れ続ける感触だけがあった。
自分がそれをしているわけではないのに、むしろされている側なのに、実感をともなわず、どこか遠くでそれを見ているようだった。
客観的に、物体が貫かれ続ける実験を、ただ無感動で眺めているような。
ああ、こうなってるんだなあ。こうなるんだなあ。貫かれている方は、びくんびくんと跳ね回っているなあ。
貫いている方が、渾身の力で何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も、刃を押しつけているからだろうなあ。
死ぬんだろうなあ。
刃の雨がやみ、推しが馬乗りになっていることに気づいて、白みかけていた視界に色が戻ったとき。推しがスローモーションで倒れかかってきた。心臓が跳ねあがるほどのいちだいじ。
ぎゃあ、とリアルに叫びそうになったが、推しは口から血を吐いた。その血がぶしゃと顔にかかり、ふたたびぎゃあ、と叫びそうになるが、それどころではない。
自分の体重で己の体に刃を押し込んでいる。腹にあたる柄のかたさで、それがわかった。
このままだと出血しすぎて、死んでしまう。
推しが、死んでしまう。
誰か……っ!
誰か、推しを、誰か……っ!
ぐにゃんと目の前がぼける。
痛みはなかった気がしたが、ここにきてせきを切ったように痛みがたたみかけてきた。目の奥が焦げてしびれて、ぼとりと落ちてくしゃとつぶれるような錯覚におそわれる。
右を向いているのか、左を向いているのか、上が下なのか、下が上なのかわからなくなり、吐いては口でキャッチして、また吐いてをくりかえすような異物感を口内に感じた。
体じゅうの排泄器官が細胞をいっせいに逆に流しているみたいで、とにかく気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
なすすべなく自由落下していく浮遊感で全身がつつまれて、どん!と衝撃がきたと思った。その高さからいったら死んじゃうんじゃないの?とも思ったら、
そこで意識がぶつんと、とぎれた。
「はっ!?」
長いあいだ息をしていなかった気がする。ぶはあっと肺に息をすいこむ。一気に酸素を取りこみすぎてむせる。
「あっ、と、え……っ、お、こ、ここ、は……?」
推しは、あの子はどうなった?
あたしの、推しは……?
眠っていたのか、ふと気がつくと、あたりは明るさが戻っていた。暗がりの病室にいたはずだが。
どろりとした血の感触だけは指先に残ったまま。そのあとにおそってきた「死」とも「夢」とも思えない異様な感覚はいったい……?
何だったのか、はっきりしないあたまを抱えて、スマホを引き寄せた。
妙な夢をみたのか、と。
やけにリアルな夢だったな、と。
そう思いかけた脳をガンとゆさぶられる。こめかみをハンマーで振り抜かれたような強い衝撃。思わずスマホを二度見した。
ディスプレイに映るのは「五年前の今日」の時計表示。
「はあっ!? え、な……、なんなの……?」
推しに刺し倒され、その推し自身も死ぬ夢をみて、目覚めてみたら過去の日付をスマホが訴える。
これが現実なのだとしたら、どうか夢だと信じさせて。
〈つづく〉