去る12月7日ジェムズカンパニーというバーチャルアイドルグループがひと区切りを迎えた。
6年半という長きにわたってバーチャルアイドル業界の荒波を越えてきた彼女たちのがんばりに、あらためて心からの感謝をおくりたい。
スーパーありがとう。
【Official MV】
「JAM GEM JUMP!!!」Full ver.【GEMS COMPANY】より
- ジェムカンとの出会い
- バーチャルアイドルも人
- 人が追い求める「かけがえのないもの」
- 名状しがたい応援したいという気持ち=推し
- アイドルとは元気玉みたいなもの
- ではジェムカンはどうだった?
- ジェムカンはずっとピンチだった?
- では、どうなれば成功だったのか?
あたしはしばらく追いかけることから離れていたので、今さらどうこう言える立場でないことは重々承知だが、振り返りと、今後への思いを少し吐露させていただきたい。
ジェムカンとの出会い
あたしがこのグループと出会ったのは、ドラクエ10を駆け回って、あほなブログを書くことからも遠のいて、ラブライブ!に激ハマりするも一方的に別れを告げられ、DQ11の二次創作本を創作したりするもいまいちノリきれず創作活動意欲もどんどん衰えていった、あの頃。
あたしがイレブン本を夏コミで売っているウラで、ドラクエ10プロデューサー「よーすぴ」退任の報が入り、今度はどうやらバーチャルアイドルをプロデュースするらしいぞ、ということは右耳でキャッチして左耳から抜けていった。
グループ発足当初はまったく知らなかったし、「どうせまたいなくなっちゃうんでしょ?」というμ'sショックから立ち直れないこじれアイドルオタクのスタンスでいた。
発足時点でアイドルグループだと発表されたのが、2018年8月。実はそれ以前に同年4月から「企業体制であることを隠して」メンバーが個別に個人配信をYouTubeで開始していた。(なんと物語性があった)
ただその事実をあたしが知るのはかなりあとになってから。
はじめに「ん?!」と目を向けたのがこの楽曲のミュージックビデオがYouTubeにアップされた頃。
この楽曲は卒業してしまった当時センターの子と、現在でもメンバーとして活動しているふたりで歌われている。
これを見た当時のあたしは、「なるほど!」「よーすぴはこれがやりたかったのか!」と勝手に納得して、徐々に彼女たちを追いかけはじめることに。
ビジュアルはなんとなくニュースサイトなどで知っていたし、ふーんこんな子たちなんだ程度には認識していたが、実際に歌って踊っているものを見せられた衝撃は大きく、「バーチャルアイドルでもここまでのレベルだとエグい」という可能性を感じさせてくれた。
正直、ここまでのはっきりしっかりとしたアイドルが、バーチャルで表現できるようになっているとは思っておらず、価値観をハンマーでがんと殴られた気分だった。
ここらあたりからμ'sショックの影響から立ち直りはじめる。
そして同年の年末。
個人配信を行っているYouTubeの生放送にもコメント参加しはじめるなど、一気に過去の放送をあさり、名実共にだだハマりすることとなった。
バーチャルアイドルも人
ジェムカンと出会ったときは、もうすでに当たり前のようにアイドルは「会いに行ける」時代だったのだが、これまで推してきたアイドルたちには自分のなかで「会いに行く」という感覚はなかった。
アイドルは遠くから見ているもの。
アイドルはここではないどこかでキラキラと輝きを届けてくれる存在。どこかそんな認識なのだった。
けれど、現在までいまだに人気を博しているバーチャルアイドルのひとつの楽しみ方として配信に「会いに行く」というものがあることを、あたしはジェムカンを通して知った。
なるほどたしかにアイドルに「会いに行ける」商法がなぜ流行るのか、わかった気がする。
配信でリアルタイムに交流できるようになったことで、アイドルが偶像的だった存在から、ぐっと身近な存在に感じられる。
アイドルも人なんだなということが、今さらながらに分かった。
ただこの「アイドルは人」という気づきは、分かりたくなかった部分かもしれない。
今で言う「推し活」は、当時あまり浸透していなかった概念だったからだ。
アイドルだって人なんだよ。ということは恋もするし人並みの幸せを求めるものなんだ。その相手は、同じ人である自分かもしれないんだよ。
そんなことは絶対にありえないのだが。
いや、もう一度言っておこう。
そんなことは絶対に、ぜったいに、ありえないのだが。
アイドルを好きになるファンは、一度は「自分が推しの子の恋愛相手だったら」と妄想するはずだ。
これに異論ははさまないでいただきたい。
人は生きていれば、かならず誰かを好きになる。
だから、長年アイドルを推す活動にいそしむ者は、自然と「アイドルは人」と思わずに、ただ、好きなアイドルを推すようになる。
好きになる=恋をする。
ではなく、
好きになる=推す。応援する。
に意識を、変換するのだ。
アイドルだって人の子だ。誰かと幸せになることもあるだろう。そうして舞台から降りたとき、ファンであったあなたは大きな喪失感に苛まれるだろう。
心に保険をかけるのだ。
いつ好きな人が去って行ってもいいように。
アイドルの輝ける時間は短い。それはファンも重々に刻み込んでいる。あたしのように、アイドルとの(心の)別れを経験したことがある人もいるはずだ。
アイドルを好きなったことがない人もいるだろうが、自分が好きだった初恋の相手でもなんでもいい。
その人が目の前から去って行くのだ。
恋をしていた相手が、いなくなる。その気持ちを想像できるのなら、推していたアイドルがいなくなってしまう心の痛みが分かるだろう。
どれだけ取り繕っても、あたしには分かる。
「推す」という言葉で心を守っているだけで、その実、あなたは恋しているんだ、そのアイドルに。
人は誰かを好きになる。好きな気持ちがあふれると恋に発展する。
恋する気持ちは、一方通行であっても、恋にかわりはない。
だから、失恋なのだ。
失恋なんですよ。「もう、別れよう」って切り出されたんです。○○ロスなんて言葉じゃ生ぬるいほどの傷を負います。
傷は癒えるのを待つしかない。
その傷がえぐられないように、心にふたをするんですね。
ばんそうこうみたいなもんなの。ただむせび泣きたいのをこらえているだけなのにね。
分かりたくなかった。分かっているけど、見て見ぬ振りをしたかった。
バーチャルアイドルというのは、「アイドルも人である」と現実を突きつけてくる。
インターネットという媒体を通してだが、お金を出さなくても「会いに行ける」。いつだって、配信をつければそこにいる。
別れの傷は今と昔、どちらの方が癒えるのが早いでしょう?
人によるかもしれませんが、あたしは「会いに行かなかった」方が、早い気がしますね。
人が追い求める「かけがえのないもの」
前段のように、人は情がはたらく生き物だ。
会いに行かずに別れた人より、会いに行って別れた人の方に情がわくのは、ごく自然なこと。人という種にとってはね。
知らない他人より、知っている他人とまでは言わないが、まあ所詮は他人なので、失恋の傷が深かろうがいつか癒える。
そういう見方をするとアイドルというのは、消費されるものと言わざるを得ない。
人間を消耗品と例えたくはないのではばかられるが、人は「かけがえのないもの」をさがす生き物だとも思っている。
「かけがえのない」とは、「代わりになるものがない、何より大切で、絶対に失いたくない」ということを意味する表現
、であるとGoogle先生はおっしゃっている。
人は根源的に、かけがえのないものをさがす種だと仮定する。
そうすると、家族を成し、子孫を残すのも、かけがえのないものをさがす末に行き着いた種の性質だとひとことで説明できる。
さてそうなると、アイドルは「かけがえのないもの」になり得るのか?
僭越ながら前述の通り、あたしはなり得ないと言うしかない現状だ。
あくまであたしの考えではこう思うという話だ。
人によって「かけがえのないもの」を問われたときの価値観が違うだろうことは申し添えておく。
推している期間が短かろうが、最高の思い出として「かけがえのないもの」を大事にくるんでパッケージングできる人は、いる。
失恋の傷が癒えるということは、そのアイドルを推していた時間は、その人にとって「かけがえのないもの」フォルダにきちんと思い出として仕舞われている可能性が高い。
これはアイドルにかぎった話ではないから、ついてきてほしい。
生涯ひとりきりを愛することを生まれてこのかた達成できている人が何人いるだろう。
そういう話だ。
恋にかぎった話でもない。友人付き合いだってそうだ。
人は出会いと別れを繰り返している。
そのたびに、何らかの心の整理をつけているはずだ。
しかし思い返してほしい。
「かけがえのない」とはどういう意味のことばだったか。
そう。絶対に失いたくないものである。
そういう意味を表現したのが「かけがえのない」であった。Google先生が言っているのだから間違いない。
失いたくないから、心にふたをする。
失いたくないから、大事に仕舞っておく。
けれどそれは、「失った」という事象を認めたくなくて、「失っていない」「かけがえのない時間だった」と自分で納得させているだけなのだと言わざるを得ない。
単に心を上書きしているだけ。
本当は心の奥底で、失ったことに嘆き、苦しんでいる。
「失わないもの」に比べれば、「失う可能性のあるもの」はやはりかけがえのないものとは言いがたい。
けれど人はさがし求めてしまう。
それは仕方のないことだ。
人の性なのだから、アイドルだってアーティストだって芸人だって二次元のキャラクターだって、失うかもしれなくても、さがし求めてしまうのだ。
人は絶対に失いたくないから、子を産み育てるのだ。
これが人という種の習性なのだ。たぶん。
名状しがたい応援したいという気持ち=推し
昔でいう「推し」が恋なのだったら、今浸透している「推し」という文化には否定的なのか?と斜めからばっさり指摘されても仕様がない。
仕様がないようなことを言った自覚はある。
はっきりと申し上げるが、あたしは決して今の「推し」という文化に否定的ではない。
人は「かけがえのないもの」を求めるのだから、それが「推し」という言葉で表現されるのには何の抵抗も抱かない。
そもそも「かけがえのないもの」と9文字で書くよりも2文字で済むので、いま現在、「かけがえのないもの」=「推し」と定義したくてたまらないくらいだ。
「推し」=「かけがえのないもの」
あたしがここから「推し」と発言したら、これだと思っていただきたい。
人は推しをさがし求める。
これはたとえ、アイドルが「失う可能性のあるもの」であったとしても、人はアイドルを求めるだろう。その可能性を示唆している。
推し変。という言葉があるが、決して卑下すべき言葉ではない。
人は推しをさがし求めるので、何らかの原因で推せなくなった(=かけがえのないものフォルダからこぼれてしまった)ため、新たな推しに行きついた。
こう言語化することができる。
心の傷をかくすためか、また新たな日々を生き抜くためか。
人は推しを変え、新たな推しに停泊し、また島から離れ、次の推しへと。まるで船旅のように転々と推しをさがし渡り歩く。
渡り歩いた結果、推しがたくさんいる人ももちろん存在する。
その度合いがどうであれ、推しであることに変わりはない。愛が深い人もいれば、愛が広い人もいる。
人は愛の結晶でもって、かけがえのないものを生み出す。
推しのことを、かけがえのないものを、ぜったいに失いたくないと思えなくなったら、人間やめたほうがいい。
人の形をした何かだ。
ただ、ここまで推しとは愛することだ。と手を変え品を変え言ってきたものの、自覚的でない愛や恋もある。
この思いを、何と言ったらいいかわからない。でも応援している。なくなってほしくない。ずっとそこで輝いていてほしい。
そう思える対象が推しということだ。
愛や恋で一元的に割り切れない人も、今日から、明日からでもいい、その応援したい思いに名前をつけるのなら、「推し」。それでいい。
そう言っていけばいい。
アイドルとは元気玉みたいなもの
さりとて、アイドルは推しの対象となりえるが、推しで居続けることには困難を極める。
アイドルだって人であるからだ。
これは広義の「推し」の対象としても興味深い論点で、アイドルにかぎらずアーティストだって芸人だって二次元のキャラクターだって、失うかもしれなくても、さがし求めてしまうものと前々段で言った。
とにかくいろんな推しは、推しでありつづけることは、恒常的には難しいものとして存在する。
炎のように、かっと燃えて、徐々にであったりぱっと消えたりする。
終わりがあるから美しく光るのだ。
炎のたとえをとると、かならずこうして反論してくる人がいる。
たしかに終わりがあるから、人に感動を与えることはできる。終わらないアイドルというのはそれはそれでちょっと恐ろしさを感じてしまう。
ラブライブ!はスクールアイドルである。
スクールアイドルでいることには終わりがある。人には時間が容赦なく一律に降りかかってくるからだ。
時が止まった作品や、ループし続ける作品もあるが、μ'sは終わりがあったからこそ、閃光のように燃え上がり見た人の心を照らした、ともいえる。
しかし人は、かけがえのないものを求める。
推しは、ぜったいに失いたくないものにカテゴライズされている。
μ'sとの別れを経たあたしのように、「どうせまたいなくなっちゃうんでしょ?」と思い、推しきれない、好きになりきれない、人生かけきれない「推し」も当然、傍らにある。
夜に咲く電灯に群がる虫たちのように、強く真っ赤に燃えているものに、人も寄っていく。電灯も切れる間際が最も強く光る。しかし消えた後で、虫たちは路頭に迷うのだ。
暗闇をあてもなくさまよい続けるのはやはり怖い。いつまでも光り続けるところへ集まりたくなるのは心理的に当然といえよう。
しかし逆に、いつでも光り続けるなら、先にこっちの消えそうな光も浴びておこうかなという心理も働いてしまう。
というか人を虫で例えるもんじゃないが、このように、推しへの心理的な変遷が見てとれることは、人特有のものだろうなと思う。
野性的な心理としてどちらも存在するのが人ということなのだろうなと思う。
しかしアイドルは、推しは、推されてなんぼだ。
たくさん群がられても、もっともっと多くを照らそうと大きく光るのが推しであり、アイドルだ。
推されれば推されるほど、アイドルは大きく光り輝く。
さながらそれは元気玉のようである。
この元気玉のサイズが、大きいか、小さいか、それが強敵に相対した悟空の命運を握るといっても過言ではない。
小さければ強敵を倒しきれない。
特大の元気玉でなければ、もしかすると悟空は倒されてしまうかもしれない。
アイドルの命運も、元気玉のサイズにかかってくるのである。
ではジェムカンはどうだった?
だがしかし、いつでもいるからと言って、いつでも光っているからといって、その明かりは無限かと言われると、やはり電灯と同じだ。
電力の供給がなくなれば、明かりは消える。
あたしの提唱する元気玉理論でいくと、応援の声が少なければ悟空の命は尽きてしまう。それと同じピンチを、アイドルにも与えていると考えてみたらどうだろう。
応援する声が少ないことがいかにアイドルにとって、辛く、苦しいことか、わかるだろうか?
ずいぶんと遠回りをしたが、ここでGEMS COMPANYに焦点が戻ってくる。
バーチャルアイドルとして走り出し、配信にいけば「いつでも会うことができ」、結果6年半という長きにわたってアイドルであり続けた姿に、いつまでも光っている電灯だと印象があったろうか?
あたしは追い続けたわけではないので真意をつかみかねるが、スタートの時点から→4人のメンバーの脱退を経て、ファンのあいだでふつふつと湧き続けていた「推しきれない」空気がつきまとっていたように思う。
大きな光でなかったからファンが気づきにくく、長く光り続けたからほかの明かりに飛び移られ、なんてそんな話ではない。
スタートの時点で、彼女たちには「かなえたい夢がある」としてステージにのぼった。
個人個人の夢はあるが、彼女たち全員の夢はどこだったのか?
ゴールが明確にあったのか、最初から最後まで6年半のあいだ、彼女たちを見続けた人に聞いてみたいし、想いをぶつけてもらいたいが。
ゴールが明確であったとしても、どうなればゴールなのか?を明確にされていないままの「終わり」の設定は、はかなさで大きく輝くためには少し弱かったかもしれない。
かといって、配信でいつでも会える性質を付与し、長く光る安心感を与える存在にしたかったとしても、貫かれなければ意味がない。初期メンバーの脱退は、そんな安心感を求めたファンを現実に引き戻す要因につながると言わざるを得ない。
しかし提供される楽曲やMVは極上のもの。
ただ少しのボタンの掛け違いで、驚くほどの高みへのぼっていく可能性はあったはずだった。
少なくともあたしは、そう感じていた。
ジェムカンはずっとピンチだった?
掲げたアイドルとしての目標が高すぎたせいか、ジェムカンは首が詰まる思いをずっとしていたのかもしれない。
いわゆる企業系Vtuberとしての側面があったため、企業の方針や展開のさせ方には、縛りや高い理想がつきまとったであろうことは想像に難くない。
ただそれを差し引いたとしても、運営のバックアップ体制やプロデューサーが賭ける思いの強さなど「もっとこうしたら」という側面はあったとしても、やはり最後は元気玉がでかかったのか小ちゃかったのか、それに尽きる気がする。
「みんな、オラ(たち)に元気をわけてくれー!!」と声をはり上げても、元気玉が小さいまま。
「まいったなあ」
「このままじゃ、オラあいつに勝てねえぞ」
と、振り上げた手をいつまでも下ろせないでいる悟空。
このまま負けてしまうのか!?でもなんとかがんばれ、悟空~!という八奈見さんのナレーションが聞こえてきそうだ。
この、悟空の「まだだ、まだ足りねえ……」状態のまま、何十週も引き延ばされて、引き延ばされてはヒロインたちが強敵を食い止めて、悟空は「まだだ」と気張っている。
気張り続ける悟空もつらいし、何十週も食い止めさせられているヒロインたちもある意味、ジェムカンのメンバーのようでもあり、思い返すと涙をさそった。
ただそれは、最初から最後までファンでいられなかったあたしが言えることではない。ずっと推しとしてジェムカンに声を届け続けたファンが感じられることだ。
しかしジェムカンはずっとピンチに窮していた。その事実はたしかにあった。
では、どうなれば成功だったのか?
ここまでくそほど長い文章をはき出し続けているが、あたしは何者でもない。
バーチャルアイドルで成功した事業者でもなければ、それらを研究しているものでもない。ましてやアイドルというものや、それに類する人気稼業の経営戦略家でもなんでもない。
そんな者が「どうすれば成功だった」と語ることはできない。思いつきもしない。タラレバならいくらでも言えるが。
けれど、「どうなれば」成功と言えるかならば、ひとつだけ言えることがある。
永遠に続けばよかった。それで成功だった。
もしファンが離れていき、他の熱に浮かされたとしても、また推しが変わるそのときに、グループが存続していたら、戻ってきたかも知れない。
そうなるにはどれだけの時間を要するのか、気の遠くなりそうな話である。
けれど、実際に、ずっと存在し続けることにかなりのアドバンテージがあるとは思っている。
人は成長する生き物でもある。
もし離れていったとしても、違った目線でみると新たな見え方をするようになる。絵本も子どもと大人では感じ方が異なるように。
推しに対する人々の考え方も刻々と変化する。
そんなさまざまな変化にひとりの人間で対応するのは、どだい無理がある。変化にいちいち対応していたら、神経がすり減ってしまい、すぐに息切れしてしまうだろう。
だが、不変を貫いたらどうだろう。
変わらないことで、変わってしまう人々のニーズをとっていく。
Aという性質のアイドルが好きな人が、100人いたとしても、何十年とその100人が変わらず同じアイドルが好きなわけではない。
このA好き100人がごっそりBアイドルを好きになっても、Aが変わらなければまた新たなA好きの100人が現れるかもしれない。新たなA好き100人がごっそりCアイドルを好きになっても、また次のA好きがという寸法。
人の気持ちは、悲しいかな、絶対に失いたくないと思っていても、移ろいゆくもの。
シンに強い想いがなくば、かけがえのないものを=推しを愛し続けるのは難しい。人の習性はなんとも奇妙だ。
では「変わらないで居続ければ、アイドルは誰でも成功できるのか」と疑問が湧いてくるだろう。
答えはイエスともノーとも言える。
たしかに変わらないことの強さは手に入れられるが、そもそも変わらないで居続けることがアイドルにとってはめちゃくちゃ難しい。
アイドルも人。
ずっと冒頭から言い続けたひとつの理であるが、人なので歳もとるし、かけがえのないものが移ろいゆく。
ファンも人であるように、アイドルも人なのだ。
アイドルにだって推しがいる。
熱が冷めずに、気持ちが風化せずに、アイドルで居続けられる人なんて、地球上に存在するのだろうか。
それこそ、ロボットやAIにしか果たせないだろう。
人類でそこに到達したければ、不老不死の霊薬を口にするしかない。そして極論、そこまでしてでもアイドルでいたいか、という問題が横たわる。
と、かなりの極致まで来てしまったが、ジェムカンにおいて当てはめると、ふつふつとあった「推しきれない」空気は、もしかしたらグループはなくならないという安心感をあたえる手法か、ゴールがみえているもどでかく一花咲かせましょう手法か、そのどちらかでも明確に提示されていたら、払拭できたのかもしれない。
安心感パターンの場合でも、企業体力を考慮にいれても、6年半続いたのは驚くべきことなのだと思える。花火パターンの場合は後述するが、もうここまで続けられたのなら、グループの名前だけ残してメンバーが入れ替わっていく手段しかなかったように思う。しかしそれは……あまりにも……。
アイドルで居続けるのは、大変なのだ。
そのなかで6年半も夢を見させてくれたジェムズカンパニーには本当に、ありがとうという言葉で締めくくりたい。
ここまで長々と飛躍した理論を展開してきたし、たかが1年半程度推したアイドルをどんだけ語り倒すねんとツッコミが降ってきそうだが、本当に感謝を述べたい。
かなえたい夢があるにも関わらず、最後まで夢を見せてくれたジェムカンのみんなへ、最後までアイドルを貫いてくれたその姿に、最大の敬意を表して。ハイパーありがとう。
最後にあたしが行った「推し活」を紹介して終わりたい。
色紙プレゼント企画は、珠根うた氏の色紙をいただいたし、推していた配信は城乃柚希ちゃんだったし、花菱撫子さんはキャラとして愛していたし、自分の二次創作の主役として最も愛していたキャラは水科葵であった。
みずしーには、いつまでも歌っていてほしいと願うし、ほかの子たちも夢を目指して羽ばたいてほしいと願う。
この物語が、終わりを迎えられていたら、今日のような未来は来なかっただろうか。いやおこがましい。ただ少なくとも、今日の複雑な感情をもっとコンパクトに、整理できていた気はするな。
嘆いても、推しは推せるときに推せ。という言葉しか、頬をつたってこぼれてこない。あたしのばかやろう。
最後の最後に、ジェムカンという存在の展望を考えられる余地があるのなら、ひとこと言いたいことがある。要望とは違う、こうすればよかった可能性世界を論ずるだけのものだが。
ただそれは、黒いことも吐かねばならないし、批判的に映る文面も出てくることが予想されるので、あたしのnoteに仕舞いたいと思う。99%無料で公開するつもりなので、気になる方はもう少々お付き合いいただけると幸せだ。
〈了〉